日本を代表する歴史小説家、司馬遼太郎(本名:福田定一)。彼の作品は多くの読者に愛されていますが、その生い立ちや家族構成についてはあまり知られていないかもしれません。
本記事では、司馬遼太郎の家族背景や幼少期、そして作家としての歩みを詳しくご紹介します。
幼少期と家族構成
1923年8月7日、大阪府大阪市南区難波西神田町(現在の浪速区塩草)に生まれた司馬遼太郎。
父親の福田是定は薬剤師で、薬局を経営していました。
母親の直枝との間に、司馬は次男として誕生しましたが、兄は2歳で早世しています。そのため、実質的には姉と妹が一人ずついる三人兄弟の真ん中として育ちました。
幼少期、乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に預けられていたこともありました。
少年時代の学びと興味
1930年、司馬は大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)に入学しました。
性格は明るく、学校生活では活発な少年でしたが、学校そのものはあまり好きではなかったようです。
母の実家の周辺には古墳が多く、司馬は土器のかけらや石鏃を集めることに熱中していました。また、大陸の馬賊に憧れるなど、冒険心旺盛な少年時代を過ごしました。
青年期の読書体験と知識の蓄積
1936年、上宮中学校に進学した司馬は、図書館に通い詰め、多様なジャンルの本を貪るように読みました。
中学3年生の時には『十八史略』を読破し、さらに阿倍野のデパートで立ち読みを重ね、吉川英治の『宮本武蔵全集』を読了するなど、その読書量は膨大でした。
この頃の読書体験が、後の作家活動の基盤となったことは間違いありません。
家族の支えと結婚生活
司馬遼太郎は二度の結婚を経験しています。
最初の妻、雅子さんとは1950年に結婚し、1952年に長男が誕生しましたが、1954年に離婚しています。
その後、産経新聞の同僚であった松見みどりさんと1959年に再婚。みどりさんは結婚後、司馬の執筆活動を献身的に支え、司馬遼太郎記念財団の設立にも尽力しました。彼女の支えが、司馬の多彩な作品群を生み出す原動力となったのです。
作家としての飛躍と家族の影響
1960年、司馬は『梟の城』で直木賞を受賞し、作家としての地位を確立しました。
その後も多くの歴史小説を執筆し、日本文学界に多大な影響を与えました。
幼少期からの読書体験や家族の支えが、彼の創作活動に大きく寄与したことは言うまでもありません。
家族との関係性や幼少期の経験が、彼の作品に深みを与え、多くの読者の心を捉え続けています。
まとめ
司馬遼太郎の生い立ちや家族構成を振り返ることで、彼の作品の背景や創作の源泉を垣間見ることができます。家族の支えや幼少期の経験が、彼の作家人生に深く影響を与えたことは間違いありません。これからも彼の作品を通じて、その魅力を再発見していきたいものです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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